夜と霧 新版
によって ヴィクトール・E・フランクル
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商品説明 名著の新訳には、つねに大きな期待と幾分かの不安がつきまとう。訳者や版元の重圧も察するにあまりあるが、その緊張感と真摯さのためか、多くの場合成功を収めているように思われる。本書もまた、その列に加わるものであろう。 ユダヤ人精神分析学者がみずからのナチス強制収容所体験をつづった本書は、わが国でも1956年の初版以来、すでに古典として読みつがれている。著者は悪名高いアウシュビッツとその支所に収容されるが、想像も及ばぬ苛酷な環境を生き抜き、ついに解放される。家族は収容所で命を落とし、たった1人残されての生還だったという。 このような経験は、残念ながらあの時代と地域ではけっして珍しいものではない。収容所の体験記も、大戦後には数多く発表されている。その中にあって、なぜ本書が半世紀以上を経て、なお生命を保っているのだろうか。今回はじめて手にした読者は、深い詠嘆とともにその理由を感得するはずである。 著者は学者らしい観察眼で、極限におかれた人々の心理状態を分析する。なぜ監督官たちは人間を虫けらのように扱って平気でいられるのか、被収容者たちはどうやって精神の平衡を保ち、または崩壊させてゆくのか。こうした問いを突きつめてゆくうち、著者の思索は人間存在そのものにまで及ぶ。というよりも、むしろ人間を解き明かすために収容所という舞台を借りているとさえ思えるほど、その洞察は深遠にして哲学的である。「生きることからなにを期待するかではなく、……生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題」というような忘れがたい一節が、新しくみずみずしい日本語となって、随所に光をおびている。本書の読後感は一手記のそれではなく、すぐれた文学や哲学書のものであろう。 今回の底本には、旧版に比べてさまざまな変更点や相違が見られるという。それには1人の哲学者と彼を取り巻く世界の変化が反映されている。一度、双方を読み比べてみることをすすめたい。それだけの価値ある書物である。 (大滝浩太郎) 内容紹介 〈わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。 では、この人間とはなにものか。 人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。 人間とは、ガス室を発明した存在だ。 しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ〉 「言語を絶する感動」と評され、人間の偉大と悲惨をあますところなく描いた本書は、 日本をはじめ世界的なロングセラーとして600万を超える読者に読みつがれ、現在にいたっている。 原著の初版は1947年、日本語版の初版は1956年。その後著者は、1977年に新たに手を加えた改訂版を出版した。 世代を超えて読みつがれたいとの願いから生まれたこの新版は、 原著1977年版にもとづき、新しく翻訳したものである。 私とは、私たちの住む社会とは、歴史とは、そして人間とは何か。 20世紀を代表する作品を、ここに新たにお送りする。 『夜と霧』 霜山版と新版(池田訳)について 「言語を絶する感動」と評され、人間の偉大と悲惨をあますところなく描いた本書は、 日本をはじめ世界的なロングセラーとして600万を超える読者に読みつがれ、現在にいたっている。 原著の初版は1947年、日本語版の初版は1956年。 その後著者フランクルは1977年に新たに手を加え、改訂版が出版された。 みすず書房では、改訂版のテキストよりまた新たに『夜と霧 新版』(池田香代子訳)を2002年に出版し、 現在は、『夜と霧――ドイツ強制収容所の記録』霜山徳爾訳本と、 『夜と霧 新版』池田香代子訳との、 ふたつの『夜と霧』がある。 いずれもみすず書房刊。 -みすず書房- 商品の説明をすべて表示する
以下は、夜と霧 新版に関する最も有用なレビューの一部です。 この本を購入する/読むことを決定する前にこれを検討することができます。
この本は持ってはいたのにもかかわらず、中々読む気になれなかった。やっと気持ちを改めて読んでみました。正直、極限状態における人間が見えてくるというかこの受難の民のユダヤ人たちが、イスラエルを建国して、これまたスファラディを差別するのだから、歴史は「負の連鎖」を断ち切れないと思える。フランクル自身が悲惨な収容所の体験だからこそ、書けた文章であるのだが、民族による優越性とかの差別もまだまだ多かった時代の文章だ。だから人類として普遍性をもって考えたい理由から、「ユダヤ人」という人種の言葉を慎重に避けていたことは、訳者の後書きからもわかります。「人間ひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ」「苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在は完全なものになるのだ」「脆弱な人間とは、内的なよりどころをもたない人間だ」「もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって正しい答えは出される」この「行動」というやつが大切で、考えるより先に行動することで本物の思想が反対に生まれるということだ。意識でもって行動を考えるのではないのだ。シオランは「涙ぐむことこそ福音である」(E・M・シオラン「涙と聖者」)と言ったのを思い出した。されど、フランクルのこの態度は、むしろキルケゴールを思い出した。最近では「本気になるのは勘弁してね」という感じが蔓延していて、「本気にならないこと」がクールだと勘違いしている。今や、多くの人達が苦悩や死に関して、真摯に向き合うことを避けている。そんなことでは、人生の意味を問う入口にすら立てないだろう。キルケゴール自身が婚約破棄をしたりと、色々と不明瞭な行動が多い人物ではある。自らの行いに真剣でありすぎたために、レギーネ・オルセンの結婚破棄は「結局は愛するといっても、彼女自身を求めている欲望(性欲も含む)に突き動かされているだけではないのか」という苦悩になってしまう。純粋すぎたのだろう。でも、死後の遺産を、別の人の妻になったレギーネに譲ろうとしたことは、レギーネの兄宛の手紙に残っている。苦悩を引き受けるというのは、易々と言える時代ではない。最近は過労死や労働問題が増えているのは当然だ。本当にしたいことがあるくせに、周りの目を気にして、自分を誤魔化しているうちに、世の中こんなものだよと勝手に解釈して「物事に本気になれない」という態度で装うことにあるからではないか、という気がする。けれど、こんなことをブログなどに書こうものなら、即刻炎上必至(笑)。そんな時代そのものも、どこかおかしい。だから、こんなところでコッソリと言いたい(笑)。でも若いうちから、生きる意味なんて簡単にわかってはたまらない。外的なものに期待を持つこと、まずこれを改める必要があり、行動によりどう応えていくことが重要ではないだろうか。小関智弘氏の本を読んでいると、今ではパワハラとか、労働災害とかに直結する内容も多いけれど、危険から逃げようとしないからこそ、真実は見えてくる面までも否定してはいけない。これははっきりと言いたい。ならば安々とした状況に甘んじる態度が根元にあるならば、状況に不平を言うのもどうかと思う。苦悩を引き受ける覚悟と、運命の問いの前に立たされいるのだという、人間という存在を考えていくべきではないだろうか。生きることそのものに意味があるのではない。そうではなく、どう答えていく人間であるかが問題なのだ、ということではないだろうか?(2017.5.17読了)
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